没原稿供養

 ところでわたしには歳の離れた三人の兄がいて、上から順番に有汰、圭汰、寛汰という。

 三人は全員、綺麗に二年一か月ずつの年の差で、一番下の寛汰兄ちゃんがわたしより六歳年上だ。

 勘のいい人なら語感と並びでなんとなく気が付くかもしれないけれど、名前はギリシャ文字に由来している。アルファとベータとガンマ。英語で言えばABC。製造番号のように規則的だ。ギリシャ文字は全部で24あるから、ひょっとしたら当初の計画では全部で24人製造するつもりだったのかもしれない。

 わたしの名前の香衣というのもギリシャ文字のカイに由来している。後ろから三番目で英語だとエックスらへんにあたる文字だから、ガンマからだいぶ間を飛ばしたことになる。なんにせよ、計画が修正されたらしいのは素直に良いことだ。むかしは香衣っていうのも変な名前だなとは思っていたことがあったけど、ギリシャ文字の中ではかなり当たりのほうを引いたと言えなくもない。少なくとも、プシーやオメガよりはいくらか名前っぽい。

 三人の兄は揃いも揃って無駄に知能の高い野生の猿みたいな感じの人で、わたしの脳内エクスプローラーでは三人ともまとめて「ジャングルにナイフ一本だけ持たせて放り込んでも生きて還ってくるタイプ」というフォルダに分類されている。

 見た目てきには上から順番にややぽっちゃり、ややチビ、ギュンとノッポ、みたいなちょっとした個性づけがあるのだけれど、性格に関して言えば個別に分けて認識する必要もないぐらいにそっくりで、一言で言うと困った人たちだった。要するに、反抗期の激しい男の子たちだったのだ。

 友達の家に泊まるって言って家に帰ってこなかったり、朝ごはんを食べなかったり、お母さんが作ったお弁当はダサいからいらないとか、お母さんが買ってきた服は着ないとか、でも服はほしいからお金だけくれとか、まあそういう世間的に見れば特に珍しくもない、実に定番の反抗期てき反抗期。

 でも、そうは言ってもお母さんにとっては有汰兄ちゃんが一番最初に遭遇した子供の反抗期なわけで、それなりに気持ちがめげてはいた。兄たちは揃いも揃って十四歳から十六歳にかけて反抗期を発症し、そしてお母さんがどんな対応をしたところでそんなことには関係なく、十七歳になると自然に落ち着いた。落ち着いたと言っても相対的な話であって、基本てきな知能が無駄に高い野生の猿性みたいな部分はぜんぜん変わらなかったけれど。

 一番上の有汰兄ちゃんが十四歳で反抗期を発症したとき、わたしはまだ四歳で、お母さんの手は有汰兄ちゃんに取られっぱなしで、あんまりわたしに構えなくなっていた。だから、そのころは一番下の寛汰兄ちゃんがよくわたしの面倒を見てくれていた。

 有汰兄ちゃんはお母さんにとって初めて遭遇する反抗期の男の子だったから、お母さんもなんとかしようとして色々と勉強して様々なアプローチを試み、なんとか有汰兄ちゃんとの関係を修繕しようと頑張っていたのだけれど、そのいずれの手法も功を奏すことはなく、二年が経過して十六歳になると有汰兄ちゃんは自動的に反抗期を終え、なんとなく親たち仲間たちに感謝しながら今日も荒れたオフロードを進むライジングサンでピースフルなソウルパーソンになってしまった。

 たぶん、唐突に脈絡なくピースフルに感謝されてしまうお母さんとしても、なにかが腑に落ちなかったことだろう。

 でもまあ、なんにせよ、そのようにして有汰兄ちゃんの反抗期は終わり、次に順当に圭汰兄ちゃんの反抗期がきた。三人の兄は綺麗に二年一か月ずつの年の差なので、インターバルは一か月しかない。有汰兄ちゃんが十六歳で反抗期を脱出したとき、圭汰兄ちゃんは十四歳で反抗期に突入していた。波状攻撃だ。わたしはそのとき六歳で、やっぱり寛汰兄ちゃんに面倒を見てもらっていた。

 お母さんは有汰兄ちゃんの時の経験を生かして、なんとか圭汰兄ちゃんの反抗期を収めようと奮闘していたけれど、やっぱりどのようなアプローチも圭汰兄ちゃんに対して効果を及ぼすことはなく、それから二年が経過して十六歳になると、圭汰兄ちゃんの反抗期も自動的に収まって、自動的にピースフルなソウルパーソンにクラスチェンジした。迷惑いっぱいかけたけど今では親にマジ感謝。はい。

 そしてもちろん、その次には勘汰兄ちゃんが十四歳になり反抗期に突入する。

 わたしは八歳になっていて、十八歳になった有汰兄ちゃんはちゃっかり大学受験をクリアして東京に出て行ってしまった。親たち仲間たちにマジ感謝しながら東京という荒れた大海原をタフに渡っていくのだ。ピース! はい。

 三人目ともなるとお母さんも「反抗期の男の子に対するあらゆるアプローチは無駄であり二年経過して自動的にピースフルなソウルパーソンにクラスチェンジするのを待つしかない」と悟ったようで、寛汰兄ちゃんのことはだいたい放っていた。

 なんだかんだ言って、荒れてはいても基本てきには悪ふざけが過ぎるみたいな感じで、性根のところで正義感の強い人たちだから人を殴ったり刺したりみたいな取返しのつかない本気で悪いことはしないだろうし、でもそう思って油断していたら、寛汰兄ちゃんは無駄に知能の高い野生の猿てきな同級生数人と一緒に「家庭用の輪ゴムを束ねて作ったロープを使ってバンジージャンプに挑戦する」みたいな意味の分からない企画を立てて、足に輪ゴムで作ったロープを結び付けて32メートルの高さの橋から飛び降り、もちろん輪ゴムを束ねただけじゃ強度はぜんぜん足りなくて、たんに32メートルの高さからザボンと川に飛び込むだけのことになってしまい、その様子を動画に撮ってユーチューブにアップしたら100万回再生されたりしていた。「いや~、やっぱ輪ゴムでバンジージャンプは無理ッスね~!」って爆笑してて、ぜんぜんピンピンしてたけれど、普通に死んでてもおかしくはなかったと思う。野生の猿てきなうちの兄でなければ死んでいたかもしれない。野生は強い。

 前例のないやや変則てきなニューエイジてき反抗期の発症の仕方にお母さんはいよいよ匙を投げ、「まあ他人に迷惑をかけているわけでもないし別にいいか、バンジージャンプとかで最悪死んだとしても本人が死ぬだけだし」みたいな感じで寛汰兄ちゃんに手をかけるのも諦めて、それでようやく少しわたしにも目が向くようになった。兄たちのトリプル反抗期波状攻撃のせいで、ぜんぜんわたしのことを見れていなかったお母さんは、わたしの様子に随分と拍子抜けしたようだった。

「香衣ちゃんは手が掛からない子でいいわね」

 久しぶりに見た娘は実に大人しく、ひとりで淡々と本を読んだりけん玉やフラフープや縄跳びで遊んでいる子供だった。たぶん、無駄な知能と無駄な体力が有り余っていて、さまざまな意表をつく方法で振り回してくる三兄弟を見慣れてしまっていたお母さんは「あら~、女の子って大人しくていいわね~」と思うだけだったのだろう。

 娘が平均よりずいぶん大人しいことに、たぶんお母さんは気付いていなかったと思う。比較対象が観測範囲にいなかったのだから仕方のないのかもしれない。

 わたしはとても大人しい子供だった。

「香衣ちゃんはお兄ちゃんみたいになっちゃダメよ」と、お母さんは言った。仕方のないこととはいえ、長らくお母さんに放置されていてたぶん母の愛に飢えていたわたしは、とても素直にお母さんの言うことを聞いた。兄のようになってはいけない。

 わたしは三人の兄のようにはならなかった。ちゃんと家事を手伝ったし、夕食までには家に帰ったし、なにも言われなくても宿題をちゃんとやった。お母さんがファッションセンターしまむらだかアベイルだか綿半だかで買ってくる変な服を着て小学校に通った。わたしは典型的な田舎のダサい女の子だった。

 最後の寛汰兄ちゃんも十六歳で反抗期を脱し、予定調和てきに親たち仲間たちにマジ感謝なソウルパーソンにクラスチェンジして、真面目に受験勉強に取り組み始め、まるで予め定められたレールを辿るかのように上のふたりの兄同様に東京の大学に合格して出て行ったとき、わたしは十三歳で中学生になっていた。歳が離れすぎているせいで上のふたりの兄とわたしはあまり仲良くはなかったのだけれど、彼らが反抗期にハマッてお母さんの手を煩わせている間ずっとわたしの面倒を見てくれていた寛汰兄ちゃんとは、わたしはわりと仲が良くて、冬休みにはわたしのことを東京に招待してくれた。

 すっかり東京に馴染んでシティライクになってしまった寛汰兄ちゃんと東京の街を歩いてみて、わたしは雷に撃たれたようにビビビッ!! と気が付いてしまったのだ。


 あ、ヤバい。わたしめっちゃダサい。田舎者まるだしじゃん。


 十四歳になったわたしは、寛汰兄ちゃんとはまた違う感じで、やや変則的なニューエイジてき反抗期に突入した。表面的には別にお母さんに反抗したりはしなかったけれど、とりあえずダサいのはマズいですよみたいな気が急激にしてきたのだ。このまま穂高に居てはダメだ。この町にいるとダサいままで終わってしまう。まずは、この町を脱出しなければ。差し当たって、松本ぐらいまでは出ていきたい。松本はまだ都会だ。駅前にはスターバックスだってあるし。

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