キモいポエム

 バーベキューにきている他人の子供が全然楽しくなさそうで気持ちがぞわぞわした。みんなが楽しんでいる場で、不機嫌を隠そうともしない我が子に、両親はすこしイライラしていた。

 両親もおそらくは、子供が楽しんでくれることを期待してわざわざ連れてきているのだ。だというのに、あからさまに不機嫌そうにしている我が子を見れば、イライラしてしまうのも分からなくはない。でも、楽しくないのだ。普通の人が楽しいと感じることを楽しいと感じられない子も、一定の割合で存在するのだ。たぶん。

 それなりに長く生きてきて、いろんな嫌なこと、苦しいこと、辛いことや怖いことや恥ずかしいことはあったけれど、総合的に評価してみると、大人になってからよりも子供の頃のほうがずっと辛かった。

 小学校も中学校も嫌いだったけれど、特に、高校生時代は最悪だった。通いの懲役三年みたいなものだ。

 空気を読むとか、暗黙のルールを守るみたいな、人として生きていくうえで当然身に付けているべき基本スキルがわたしには欠けていた。何気ない行動で周囲の不興を買ったり、驚かれたり呆れられたりするのは日常茶飯事だった。わたしには普通の生きかたが分からなかった。そういうタイプの子の常として、わたしもまた本の世界に逃避していた。

 子供向けの本には、わたしのような外れ者が主人公のお話も多い。けれど、彼らはたいてい、冒険の末にかけがえのない友情を得たり、強大な敵に立ち向かったり、自らを犠牲にしてでも友達を守ったりして、最後には輝きを与えられていた。灰色の学園生活と言いながら、初登場時点ですでに無二の親友が存在していたりもした。心から信頼できる親友がひとりいて、なにが灰色の学園生活なのかと思った。

 そういう主人公たちを見るたびに、わたしは「お前も裏切るのか」というような、ひねた感情を抱いた。

 わたしが間違えているのだろうと思う。子供たちは冒険をして、困難に立ち向かい、仲間と力をあわせて、強大な敵を打ち倒し、絆を深めるべきなのだろう。けれど、そういった王道の物語にさえ、置いてけぼりにされてしまう、ごく一握りの子供というのも、きっと常に一定数存在しているのだ。

 物語を書くとき、わたしはかつてのわたしを読者に想定しながら書いている。王道の物語にさえ心から共感することのできない、なにかしらの欠陥を抱えた君に、特に珍しくはないんだよ、常に一定数、そういう子はいるんだよ、なんとかなるんだよ、みたいなことを伝えたくて書いているような気がする。

 という、売れない言い訳です。進捗をします。

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